新温泉町諸寄のフレッシュフードうらき&風まち港燻製工房です。浜坂漁港のハタハタ・但馬どりを使った燻製・お惣菜を丁寧に手作り。お電話・オンラインショップで全国へ発送。

初めてのブログ 日本遺産に、我が諸寄が北前船寄港地で追加認定されました。

はじめまして 兵庫県北部新温泉町諸寄の「フレッシュフードうらき&風まち港薫製工房」と申します
私たちは、浜坂の海の幸や但馬の地鶏肉を使って、地元の味を全国に届けたいーそんな思いから保存のよい『ハタハタのへしこ』や『黄金はたはたジャーキー』を作っています。その他手作りの商品を販売しています。

今後ともお見知りおきのほどをよろしく。お願い申し上げます。

話は長くなりますがお付き合いくださいね!

北前船

日本遺産に認定されたわが故郷諸寄は兵庫北部の日本海寄りのいちばん左端鳥取県よりです。今現在諸寄港は、季節により松葉ガニ、ホタルイカ、エビ、ハタハタ、カレイ、白いか、サザエ、岩ガキなど水揚げが上がっている港町です。

その昔諸寄の湊は、江戸時代文政7年(1824年)頃から明治の前期ぐらいまで北前船が大阪から北海道の松前まで行くルートで日本海の風待ち、潮待ち、水の補給に諸寄の港に風待ち港として寄ったそうです。

北前船は何を運んだのでしょうかね?その当時は、御城米や諸国の産物を積んで、⚓港で商いながら廻漕する船を廻船呼んだそうです。人々は廻船のことを、千石船、渡海船、弁天船、小廻しなどと呼んでいましたが、最近は「北前船」という呼び方が広く普及してきました。

「北前船」という呼称は、もともと大阪や瀬戸内の人達が日本海方面から下関を経由して、廻漕てくる「荷船」ことを「北前船」と呼んでいました。この呼び名が広く普及しているそうです。

北前船とは詳しく言いますと、江戸後期後期から明治前期に、おもに日本海航路で活躍した買積廻船集団と言います。江戸前期に松前場所に進出した近江商人に雇用され、松前と越前国敦賀を結ぶ航路を往復した運賃積の荷所、舟にかわり、江戸の後期に荷所舟から独立した買積廻船主が越前・加賀・佐渡などに出現し大阪と松前を直接結ぶ取引を始めたものです。

松前・日本海・瀬戸内・大阪の地域市場を結び、その間の商品価格差で儲ける買積形態は、領主的な流通を崩しながら全国を結びつけ、近代国民的市場形成の礎になりました。明治30年代の鉄道網の形成により衰退し、その歴史的役割を終えました。

この歴史的舞台に、わが諸寄の風待ち湊は、北前船の航路にとって、なくてはならない貴重な存在の港だったのだろうと瞼を閉じればその当時の男たちの仕事の場面が出てきそうで歴史を感じ大変うれしく誇りに思います。

日和山灯台

今日は、諸寄⚓の北前船の係留柱(ロープをつなぐ柱)の形跡とそばにある日和山灯台に行ってきました。

 

まず最初に⚓の尾崎造船所近くの海沿いの岩場に四角形に切った作った穴が2カ所と天然の岩に縦にドーナツみたいな穴が開いて向こうが見える岩があります。まず最初の穴は縦に丸い木をさして北前船からの係留のヒモ(現代はロープ)をくくって係留柱にしていたそうです。

もう1つは人によって削られた岩な縦穴は、係留ヒモを 直接穴を通してくくって係留掛けに使ったみたいです。その当時岩場を利用して現在の港の基礎を作ったのです。一言、昔の人は偉いなー!と感じました。

それから、⚓を見下ろす日和山灯台にいざ出発。登りの道は傾斜がきつく「ハア、ハア」息を吐きながら灯台到着、5人の先客ありなんと私の先輩の新古さん夫婦と松原さん姉弟と谷口さんでした。まず新古さんに今日は何の集まりですかと聞いたら、風待ち湊のことでの登頂でした。

皆さんと話をのしてる中で、何年ぶりに登っ話たなーと言う人と初めてですと言う人の声を聞いて、風待ち湊の話題で現地に人を動かしてるんだなあと凄い磁力が動き始めていることを感じました。それから松原さんの弟さんに、草むらのなかから昔の灯台になる石灯籠の場所を教えてただきました。灯籠の部分が今はなくあまり大きいものではありませんがその昔、船の航路の安全と生命を見守っていた大切な灯りだったでしょうね。

この石灯籠を大切によく見えるように整備してほしいです。これは今日の大収穫です。今日はいい天気で灯台から見下ろす美しい諸寄の景色の大バロラマを見て感動した1日でした。

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